失敗できるありがたさ

百八手(千駄焚)の再現

百八手(千駄焚)の再現

 

百八手(千駄焚)の再現

百八手(千駄焚)の再現

 

上田駅から上田電鉄別所線に乗って別所温泉に向かう途中に、塩田平が広がっています。塩田平は雨が少なく、全国でも有数のため池地帯です。先日、ため池の文化や塩田平の歴史に親しむ「塩田平ため池フェスティバル」が開催されました。イベントの目玉として、塩田平に伝わる雨乞い行事「百八手(千駄焚)」が再現されました。会場の甲田池のまわりを200本を超えるたいまつが囲み、仏式による祈祷の後、一斉に火が点けられました。たいまつが勢いよく燃え上がり、幻想的で貴重なひと時を過ごすことができました。

前回は、ホンダ生みの親、本田宗一郎さんの教えについてお話ししました。本田さんは数多くの偉業を成し遂げましたが、そうした偉業のひとつひとつは、数えきれない程の失敗に支えられているのです。本田さんの人生は、失敗から学び続けることの大切さを教えてくれます。

私たちは、頭では失敗の大切さや失敗から学ぶことを分かっていても、実際に失敗に直面すると、つい失敗を他人のせいにしたり、失敗を認めたがらなかったりするものです。また、失敗を避けようとして、新しいことに取り組むことをためらってしまうこともあります。どんなに小さなことでも、初めてやることはうまくいかないものです。もちろん、誰だって失敗はしたくありませんが、失敗を恐れていては、何ごとも始められないのです。

失敗すると、まわりから何を言われるか分かったものではありません。まわりの目を気にするあまり、失敗の大切さや失敗から学ぶことを忘れてしまい、はじめの一歩を踏み出す勇気が持てないのかもしれません。また、失敗さえしなければ、いつかは成功できると思っている人は多いのではないでしょうか。実はそうではないのです。失敗を恐れて何もしなければ、成功を手に入れることはできません。本田さんの様に、失敗を繰り返して、失敗することで明らかになった課題をひとつひとつクリアすることで、成功にたどり着くことができるのです。失敗を厭わないこと、失敗から学んだ経験を次に生かすことが、真に成功を望む態度であると思うのです。

今日の社会は、失敗や挫折に対する寛容さを失いつつあるように思います。世の中が成熟してきたと言えばそうなのでしょうが、一方で失敗を許す寛容さや余裕が無くなってきているのも事実なのではないでしょうか。確かに、社会が複雑になり、失敗が許されないことも増えています。私が携わっていたシステム開発なども、失敗が許されない世界です。コンピュータのプログラムに間違いがあると、システムが誤作動を起こしてしまい、今やその影響は計り知れません。そのために、何重にもチェックやテストを繰り返すのですが、そんな世界でも、人の失敗を責めることは逆効果にしかなりません。人は間違え、失敗するものです。誤りを責めれば責めるほど、隠そうとするものですし、完璧さを求めれば、どこかに無理が生じてきます。

私は、人が失敗を避け、社会が失敗に対する寛容さを失うことによって、失敗に対する感度が鈍くなり、失敗から学ぶ力が弱くなってしまうことを危惧しています。失敗が許されなくなると、ますます失敗を避け、失敗から学ぶことをやめてしまうのです。その結果、小さな失敗で済む場合でも、大きな失敗を引き起こしてしまいかねません。また、失敗を認めたがらない風土は、様々な改善や大きな失敗の予兆に気づく機会を逸してしまい、その結果、組織や社会の危機を招きかねません。

もちろん、私は失敗することを勧めている訳ではありませんし、失敗しないことに越したことはありません。要は、失敗したあとが肝心なのです。失敗はマイナスの面だけではありません。失敗から学べることはたくさんありますし、失敗してはじめて分かること、見えてくることもあるのです。人や組織は、失敗や挫折から学ぶことで成長するものです。「失敗は成功の母」という言葉もあります。「大きな成功は小さな失敗の集まり」でもあるのです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です